映画『ジョーカー』ネタバレ感想 アーサーに自分を重ねる私は多数派? 少数派?

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エンターテイメントと侮るなかれ。

心抉られるような感覚と、不思議な無重力感を味わえる映画です。

そして当然、エンターテイメントとしての面白さ、映像の美しさも十分です。

「私、バットマンを見たことがないからな~」という方も大丈夫。

バットマンを知らなくても、独立した映画として楽しめます。

ソースはこの私、映画のバットマンは見たことがありません。

というわけで、映画『ジョーカー』の感想を語ってみたいと思います。

ただしネタバレ・あらすじを含みます

お嫌な方はここまででお願いいたしますm(_._)m

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映画『ジョーカー』ネタバレ感想

記憶がおぼろになっている方&見ていない方のために簡単なあらすじを。

コメディアンを志すアーサーは、日々ピエロの扮装をして日銭を稼いでいた。アーサーは母と二人でつましく暮らしていたが、二人の暮らすゴッサム・シティでは貧困がはびこり、富裕層との格差は大きかった。アーサーの抱える問題は貧困だけでなく、緊張すると笑ってしまうという病もあった。それでも希望を捨てずにいたが、ある瞬間、自分の人生は悲劇ではなく喜劇だと気付き、アーサーはジョーカーへと変貌をとげる。

アーサーに自分を重ねる私は多数派? 少数派?

バットマンと対極にいる悪役、ジョーカーのエピソード1的な映画です。

エピソード1ではなく、エピソード1“的”と書くのは、これは独立したお話で、本当にこのようなストーリーがあってジョーカーが誕生したわけではない、ということだからです。

誰かの妄想……と考えてもいいかもしれませんね。

しかし、この映画の前半は、かなり心が痛かったです。

ジョーカーという悪人ができ上がるまでに、ジョーカーになったアーサーという男は、つらい人生を過ごしていたからです。

アーサーは年老いた母と二人暮らしで、母は働くこともできず、ずっと家にいます。

体の自由も利かないのか、入浴も息子が手を貸していました。

アーサーの仕事は大道芸人です。

もっと割のいい仕事はないものかと思いますが、アーサーの住むゴッサム・シティの景気は最悪で、失業者があふれ、犯罪が横行しています。

それにアーサーは病気を抱えているため、普通の仕事は無理なのでしょう。

アーサーの病気は、自分の感情に関係なく笑い出してしまうこと。

これは……致命的ですよね。

病気だから本人は悪くありません。でも、接客業や営業職はまず無理です。

学歴があるとか、他人より秀でた特技があって、それを生かせる場があれば、例えば職人さんとかなら、なんとかなるのかな?

でも、裕福ではないアーサーは、当然のごとく学歴も特技もありません。

ゴッサム・シティの経済は崩壊していて、哀れな母子に社会のセーフティネットも届きません。

いや、少しは支援があったのです。

アーサーはカウンセリングが受けられて、薬ももらうことができていたのですが、財政引き締めのため、これらは打ち切られてしまいました。

まるで、これでもかこれでもかと、殴りつけられているようなアーサーですが、それはまだまだ続きます。

救いは母だけです。

しかし、この母もまた、アーサーを、さらなる地獄へと突き落とすのです。

母は、ゴッサム・シティの大物であるウェインという男性に、自分たち親子を救ってほしいと手紙を出し続けています。

ウェインの屋敷で、30年前に働いていたというだけの理由でです。

たったそれだけのことでと疑問に思っていたアーサーは、ある時、母の手紙を盗み読みしてしまいます。

そこには、アーサーがウェインの子供であることを匂わせるような文章がありました。

母を問い詰め、ウェインに会いに行くも、ウェインの側近も、ウェイン自身も、アーサーの母をおかしい女呼ばわりして、関係などなかったと言います。

さらに、もっとひどい現実がアーサーに突きつけられます。

正直、ネタバレがどうこうでなく、彼の母がやったことを文字にするのも嫌です。

この母親、実に最低な女なのでした。

アーサーはウェインの子供ではありませんでした。母の子でもなかった。

母は自分にとって都合のよい嘘をアーサーに信じ込ませていました。

これだけでも十分すぎましたが、さらにダメ押しがありました。

憧れのトーク番組の司会者であるマレーに、笑い物にされたのです。

アーサーの心はズタズタです。原型もとどめていません。

そして、アーサーを見ている私の心も、でっかい釘で何度も引っ掻かれたような痛みと、圧迫感を感じていたのでした。

アーサーはいずれジョーカーという悪の化身になるというのに、こんなにアーサーにハマるとは思ってもみせませんでした。

これって多数派の感想だよね……と、信じたいところです(汗)

ジョーカーが誕生した瞬間、重力からの解放

夕暮れの橋

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さて、絶望したアーサーは、ジョーカーという悪に変貌していきます。

彼が悪にシフトしてしまった瞬間はどこだったのでしょう?

マレーにバカにされている自分をテレビで見た時点で、アーサーはすでに、3人の証券マンを殺害しています。

その後、自分の母もあやめ、アーサーを心配してやってきた2人の同僚の内の1人も手にかけてしまいます。

同僚を手にかけた後、ピエロのメイクをし、赤いスーツを着込んで、いつも通る道の、その途中にある階段で踊り出すのです。

ここまでアーサーの痛みを共有し続けていた私は、ここで不思議な感覚に襲われます。

踊るアーサーを見ていると、無重力の空間に放り出されたような、体の軽さを感じたのです。

証券マンを殺害したのを見たときには、まだ心に鉛を抱えているようでした。

母と同僚を手にかけたあたりから、少しずつ重りが取れていくような感覚はあったと思います。

そして、あの階段でのダンスです。

このシーン、何回も見てしまったのですが、最初に見たとき、途中で音楽が変わったことにも気付かないほど、不思議な解放感に浸ってしまいました。

なにが不思議って、「解放=喜び」という思い込みがあったのに、そんな明るい感情は微塵もない感覚だったことです。

ただただ何かからの解放があった。

この場面でアーサーは、これまでの自分と決別し、ジョーカーになる覚悟を決めたのだと思います。

ジョーカーとなったアーサーは逮捕され、暴動で荒れる街中を、パトカーの後部座席から眺めます。

人々が暴れ、煙を上げている街を見て、アーサーは美しいと呟きます。

本当に美しい光景でした。

色取り取りのネオンが煙にけぶる様子は、何が起こっているか考えると気分が悪くなるのに、目に映る光景は美しいのです。

そして、最後に私は、手錠をつけて病院の一室にいるアーサーを目にし、はっとしました。

え? どこからが妄想だったの?

そう思ったのです。

パトカーに乗せられたアーサーは、誰だか分からない人たちに助けられ、ボンネットの上に乗せられます。

ピエロのお面をつけた人たちは、間違いなく、アーサーの支持者だとわかります。その人たちの前で、アーサーはダンスを踊るのです。

え? あのシーンが妄想? たくさんの人が支持してくれたと、夢見ただけ?

と思ったすぐ後には、次々疑問がわいてきます。

いやいや、もっと前から妄想なのでは?

なにしろ、アーサーは、異常な妄想癖があります。

もしやトークショーに出演したのも夢?

同僚をあやめたのは?

お母さんのことは?

っていうか、映画の始まりから、すべて妄想なのでは?

そう思っているうちに、フランク・シナトラの甘い歌声が流れ出し、光あふれる廊下の先に向かって、手錠をつけたままのアーサーが歩いていきます。

彼の足跡はどうも血のようです。

看護人らしき人に追いかけられながら、カートゥーンのように可愛らしい「The End」が画面にあらわれます。

結局のところ、感想の最初に書いたのですが、この映画そのものが、誰かの妄想に過ぎないのかもしれません。

そう思ってしまう私は、制作側の思惑にまんまとハマってしまっているのでしょうが、一人の男の人生を追体験するだけでなく、エンターテイメントの醍醐味も存分に味わえて、大満足なのでした。

あ、映画なんてすべては妄想でしょ? という冷静なツッコミはなしでお願いします(汗)

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映画情報

製作年/2019年
製作国/アメリカ
監 督/トッド・フィリップス
出 演/ホアキン・フェニックス/ロバート・デ・ニーロ

日本での公開も2019年です。

主演のホアキンは、あのリヴァー・フェニックスの弟さんです。

やっぱり才能って持って生まれてくるものなのですね。

笑いたくないのに笑ってしまうホアキンの演技は、本当に苦しそうで、見ていて、「もうやめてくれ!」と思ってしまいましたよ。

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