メンタルが弱っているときに見ると、かなりダメージをくらう映画です。
主人公はトランスジェンダーの男性ですが、彼女の苦しみはお一人様すべての苦しみです。
とは言い過ぎかもしれませんが、少なくとも私は、彼女と同じように泣いたことがあるなぁ。
というわけで、映画『ミッドナイトスワン』の感想を語ってみたいと思います。
「この世で頼れるのは己のみ」という方も、「愛する人が必要なの~」という方も、よろしかったらお付き合いください。
ただし、ネタバレ・あらすじを含みます。
お嫌な方はここまででお願いいたしますm(_._)m
『ミッドナイトスワン』ネタバレ感想
記憶がおぼろになっている方&見ていない方のために簡単なあらすじを。
お一人様は強くあれ!という映画
設定はハードモードです。
凪沙の体は男なのですが、心は女です。トランスジェンダーということですね。
そして凪沙は東京で暮らしていますが、いまだ親にカミング・アウトできていません。
距離があるし、「バレる心配がないなら、言わなくてもいいのでは?」と若いうちは思うかもしれませんが、なにか緊急に助けがほしいときも、安易に実家を頼れないというのは、ちょっと心もとないですよね。
実際、凪沙の経済状況はギリギリに見えますし、生活の不安とか複数の不安が相まって、メンタルにきているふうにも見えます。
ある夜、フラフラになった凪沙が、家に帰って泣くシーンがあります。
家に帰って、「なんで私だけ……」って、涙を絞り出すように泣くのです。
この泣き方、遠い昔のことですが、私にも覚えがあります。
こんなときに寄り添ってくれる家族でもいたら、流す涙も少なくてすむのではないでしょうか。
でも凪沙は一人です。
こんな状況のところに、一果が転がり込んでくるわけですね。
もちろん一果だって、来たくて来たわけではありません。
女子中学生の一果が、親戚とはいえ、独身で一人暮らしの男(と思われている)のもとに送られてくるというだけで、非常事態であることがわかります。
一果はシングルマザーの母親から虐待を受けていました。
一果の母親の精神状態もギリギリ、いやギリギリをすでに超えていたのでしょう。
ああ!お金があれば!
と、こんなとき、いつも思います。
金銭で解決できる問題を解決してしまえば、状況はかなり良くなるのにね。
でも、金銭こそが解決できない一番の問題なので、一果は凪沙のもとに追いやられます。
正直、一果もよく来たなと思いますが、それだけ彼女も追い詰められていたのでしょう。
そして、そんな切羽詰まった者同士が狭い一部屋で暮らして、うまくいくはずがありません。
凪沙はもともと一果を家に置くだけで、世話をする気などなく、さらには暗い顔をして、一言も喋らない一果に苛立ちを覚えます。
一果は一果で、凪沙に心を開かず、学校でも問題を起こし、好きなバレエをこっそり始めたのはいいですが、教室代を稼ぐために、友達から紹介された怪しげなバイトをしていて、警察沙汰になります。
一果がバレエ教室に通っていることも知らなかった凪沙は、ちょっとしたパニックですよ。
そりゃ、そうですよね。
中学生の子供が、自分の知らない間にバレエ教室へ通っているし、その資金が変なバイトから出ているし。
でも、このプチパニックでオタオタしていたときの凪沙、ちょっと可愛かったです。
一果のほうは可愛いなんて言っていられる状況ではなく、自暴自棄になってしまったのでしょう、「もういい」と吐き捨ててバレエ教室から逃げ出しました。
面倒臭いと言いながらも、凪沙は一果の後を追い、「もっと自分を大切にしなさい」と諭します。
いや、無理でしょ~。なにもかもなくしたと思い込んでいる中学生にそんなこと言ったって、無理で~す。
で、実際、一果はキレてしまいます。
この子はもともと、こっそり自傷行為を繰り返していたのですが、このときはもう隠れる余裕もなく、凪沙の前で自分の腕に噛みつきます。
一果を止めようとして、一果を抱き締めた凪沙が言うのです。
「うちらみたいなんは、ずっと一人で生きていかんといけん。強うならんといかんで」
うん、そうですね。
人は生まれ落ちた場所からのスタートしかできなくて、そこに平等なんて微塵もありません。
裕福で立派な両親のもとに生まれた子供と、そうでない子供は違うのですよ。当然ですけど。
心と体の違いに違和感を覚えて苦しむのも、自分でどうにかするしかない。
残酷だけど、理不尽だけど、自分を救えるのは自分だけで、そのためには強くなるしかないのです。
結果、一果はちゃんと強くなりました。
それは凪沙という人の助けがあったからです。これはもう、まぎれもない事実。
そして、自分のことでいっぱいいっぱいだった凪沙もまた、一果のため、自分以外の人のために、強くなりました。
そのせいで、酷くつらい目にもあいました。
強くならなければいけない。でも、強くなることが楽な道であるわけじゃない。
それでも、自分に誇りを持ちたいと思ったら、強くなるしかないのです。
母になる、とは?
さて、「強うならんといけん」と言った凪沙ですが、その後、凪沙は急速に一果に寄り添っていきます。
バレエ教室へ通うことを認め、食事を共にし、夜に一人で練習する一果に付き添います。
しまいには、夜の仕事でなく、昼間の仕事に就こうとさえします。
ただ一般企業での就職は無理で、結局は工場での肉体労働となりました。
一果のためにそこまでしましたが、しかし結局のところ、一果は母親と共に田舎へ戻ってしまいます。
これは仕方のないことだと思うのです。
現実には親権者が強いですし、子供が母を求めるのも当然のことです。
もしかしたら一果の求める母は凪沙だったかもしれませんが、まだローティーンの一果には、自分の気持ちさえ正確には分かっていなかったでしょう。
一果は自分なりの答えを出しますが、そのときにはもう、凪沙の体はひどい状態になっていました。
凪沙は一果の母になろうとして、なぜかタイに行って、性転換手術を受けていたのです。
ここが私には分からない。
なぜ、そんな発想に?と思いましたが、トランスジェンダーである人の苦しみが私には分かっていないのでしょうね。
母になろうとしても、女でないことに負い目があったとか、引け目を感じていたってことですよね。
そんなこと問題じゃないと言ったところで、人の感情はどうにもなりませんしね。
でも、凪沙が女になったところで、母になれるわけじゃありません。
それで母になれるなら、継母の悩みなんてなくなります。
結局のところ、子供である一果がどう思うか、感じるか、なのです。
凪沙は十分、庇護者として一果に愛情を注いだと思います。
カミング・アウトしていない実家に、女の姿で一果を迎えに行く覚悟もあった。
ただ、そのとき、本当の女になっている必要があると考えたことが間違いのもとだったと思います。
女の体になっていないと、覚悟も揺らいだのでしょうか?
だとしたら、体と心の不一致とは、本当に大変な問題なのだと思います。
この映画にはたくさんの思いが溢れています。
凪沙の思いだけでも、トランスジェンダーであることの生きづらさや、一果が来てからは母性の目覚めや、一果への思い。
一果は一果で母やバレエや、友達のりんへの思い。
この“りん”という子、一果がコンクールで踊っているとき、同じ踊りを踊りながら、ビルから飛び降りてしまいます。
男のために身を持ち崩す、瑞貴という凪沙の友達も出てきます。
この映画を作った人たちは、きっとたくさんの思いを伝えたいと、強く思ったのでしょうね。
でも、もう少し整理してくれてもよかったな~と思う。
凪沙が母になるために体を傷つけたこと、もっと納得させてもらえたらなと思いました。
いや、どちらにしろ、理解はできても、納得はできなかったかもしれませんが。
凪沙は結局、母になることはできませんでした。
しかし、それが問題でしょうか?
凪沙と一果の間には、一方通行でない愛の形が確かにあった。
息を引き取る前に、凪沙がそれを感じてくれていたらと願うばかりです。
映画情報
製作国/日本
監 督/内田英治
出 演/草彅剛/服部樹咲
この映画は海外でも上映され、また、複数の賞も受賞しています。
この勢いで、これからも面白い映画をたくさん作り続けていただきたいですね。
つきましては、再び草彅さん主演で、任侠映画はいかがでしょうか?
彼のヤクザ役、見てみたい~。
コメント