ロック・シンガーであるジャニス・ジョプリンの伝記映画です。
映画の題名『リトル・ガール・ブルー』は彼女のアルバムに収められている曲名ですが、なぜ映画タイトルにこの曲が選ばれたのでしょう?
というわけで、映画の題名に対する勝手な考察と感想を語っていきたいと思います。
「リトル・ガール・ブルーが大好きだったわ~」という方も、「ジャニスはやっぱり、ミー・アンド・ボギー・マギーよね~」という方も、「いやいや、サマー・タイムでしょ!」という方も、よろしかったらお付き合いください。
ただしネタバレ・あらすじを含みます。
お嫌な方はここまででお願い致しますm(_._)m
『ジャニス:リトル・ガール・ブルー』ネタバレ感想
記憶がおぼろになっている方&見ていない方のために簡単なあらすじを。
なぜ題名に“リトル・ガール・ブルー”が選ばれたのか?
ジャニス・ジョプリンという人は、“ロックの女王”とか、“ブルースの女王”と呼ばれたり、サブカルのアイコン的扱いをされたりする、いまだネームバリュー絶大なシンガーです。
この伝記映画のタイトルになっている『リトル・ガール・ブルー』は、『コズミック・ブルースを歌う』というアルバムに収録されている一曲です。
この曲は、元はミュージカルの挿入歌で、ジャニス以外にも複数のミュージシャンが歌っています。
歌詞は歌う人によってそれぞれアレンジがあるようですが、ブルーな曲であることに変わりはありません。
ジャニスの『リトル・ガール・ブルー』も、自分の中の弱い部分に優しく語りかけています。
まとめると、「終わったって思ってるんでしょ? そこに座って雨粒を数えてごらん、かわいそうな子。でも分かっているはず。続けるの。あんたの気持ちは分かってる。かわいそうな子、分かっているの」という感じです。
自分の中の、柔らかすぎて、完膚なきまでに叩きのめされた部分をひたすら慰めてあげるという、なんともやるせない歌詞です。
映画は彼女の生まれた町を映し出します。場所はテキサス州のポートアーサーです。
テキサスと聞くだけで、イコール保守的・人種差別・男尊女卑と浮かんでしまう私は、何かに毒されているのかもしれません。
でも、ジャニスが地元で、違和感を覚えていたのは確かです。
高校ではイジメにあい、大学でも幼稚な嫌がらせを受けたジャニス。
我慢できなくなった彼女は大学を辞め、サンフランシスコへ向かい、そこでは自他ともに歌の才能が認識されます。
ジャニスは白人離れした声とセンスを持っていて、黒人ミュージシャンから「本当に白人か?」と訊かれたくらいです。
彼女はブルースが好きで、歌ってみたら上手に歌えて、そりゃ嬉々として歌いますよ。
たったそれだけのことですが、そんな彼女を冷たい目で見る人たちも大勢いました。
時代は大きな転換期にあって、女は女らしくという価値観や人種差別を打ち破ろうとする人々と、既存の価値観を守ろうとする人たちの間で、社会は揺れ動いていたのです。
否が応でも、ジャニスはカウンター・カルチャーのアイコンとして取り立てられ、ジャニス自身、自分からその立場に飛び込んでいったのですが、基本的には、彼女は繊細で知的な女性です。
だから、大学でのいやがらせが幼稚であればあるほど傷ついたし、後々、薬とアルコールへ依存していくのは避けられなかったと思います。
差別や、女だから男に従えという考え方に反対というのも本音であり、もっと自由に生きたい、才能を認められたい、ちやほやされたいというのも、若いうちは当然の感情です。
それらの思いと、本当は母親と同じ、結婚して子供を生み育てる人生を望んでいたとしても、別に矛盾はしていないはずです。
たった一人の人間の心の中には、それはもう、霜降りのようにいろんな感情が入り組んでいます。当然です。
ただ、ジャニスの場合、時代とか彼女を取り巻く環境とか性格とか、いろんなものが相まって、彼女は程よいところで生活するということができなかったのですね。
現在なら、ミュージシャンの女性が結婚して子供を産んでも歌い続けるなんて、ざらにある話です。
本人の意志でないかぎり、子供を生んだから引退とか、ファンも考えませんよね。
いや、ジャニスの場合、いっそ引退して、結婚してしまえば良かったのです。
引退したって、時代が落ち着いた後に、しれっと復帰しちゃえばいいのですし。
ただ、当時の彼女には歌だけが支えだったわけで、その選択肢はあり得なかったのでしょうね。
ジャニスの手紙だったかに、「スターにはなれてもパンは作れない」って言葉がありました。
いや、パンなんて買ったらええや~ん。美味しいパンはなんぼでも売ってるし。ダラな奥様なんて山ほどおるし。真面目か!?
と心の中で叫んだのですが、真面目なのでしょうね、ジャニスは。
しかし「スターにはなれる」なんて、なんと格好良い言葉でしょう。
確かに彼女は新しい文化のアイコンであり、スターでした。
それなのに、身近な人たちの話から浮き彫りにされる彼女の姿には、孤独という言葉が付いて回ります。
この映画の題名が『ミー・アンド・ボギー・マギー』でも『サマー・タイム』でも『ボール・アンド・チェーン』でも『クライ・ベイビー』でも『トラスト・ミー』でもなく、『リトル・ガール・ブルー』なのは、確かにな~と思えるのでした。
ジャニスを語る人達を見て
この映画ではジャニスのバンドや音楽仲間、テキサス時代の友人も出てきますが、一番印象的だったのは、ジャニスの妹と弟さんのインタビューでした。
私は正直、ジャニスの家族に対して、あまり良い印象は持っていませんでした。
ですが、この映画で、ジャニスの家族に対する印象はかなり変わりました。
もともと、妹さんはジャニスに好意的な印象ではあったのですが、さらに、ジャニスに対して理解があったことが意外でした。
弟さんは、やはり男性なだけに、姉に対して距離を置いている感じはしました。
そして、この弟さんの話から、彼らの両親がジャニスに対して、かなりの理解を示していたことがわかります。
もちろん、考え方や人生に対する姿勢の違いは大きかったのですが、それでもジャニスを愛していたことに変わりはなく、そのことが分かるインタビューでした。
その両親の態度が姉を増長させたと、弟は思っているのかもしれません。というか、インタビューを聞いていて、そう思っていると感じました。
青春時代を60年代のテキサスで送った男性なら、両親の態度や姉の行動に怒りを感じるのも当然です。
映画の後半でインタビューに答えるのが妹さんばかりになったことを思うと、たぶん、彼は姉を愛していながらも、複雑な心境を抱えざるを得なかったのでしょう。
そして、彼らから受けた衝撃は、彼らの容姿にもありました。もう六十代であろうお二人が、とても素敵だったのです。
特に妹さんにはジャニスの姿を重ねてしまいました。
「娘十八、番茶も出花」と言いますが、私としては、これはちょっと、異議ありです。言いたいことは分かりますが、案外、若い頃ってみっともなかったりします。どうやっても格好のつかない年頃と言いますか……。
ジャニスは容姿にコンプレックスがありました。もちろん私も、いくらファンとはいえ、彼女がモデル級の美人だとは言いません。
ただ映画が進むにつれ、当然ジャニスも年を重ねていく姿が出てくるのですが、綺麗だなって思う瞬間が何度もありました。
27歳でジャニスは亡くなりました。
最後のアルバムと言うべきか、2枚目のソロ・アルバムと言うべきか、アルバム『パール』収録中のことでした。
やめていたはずの薬を打って、亡くなっていました。
元のバンドメンバーの言葉に、「自分を偽ったあとの代償は大きい」というのがありました。彼がジャニスから得た教訓だそうです。
でも、あの時代、女がロックスターとしてい続けるために、まったくの自然体でいられたわけもなく。
もっと図太い性格なら、また違った結末だったかもしれませんが、“たられば”を言ったところで、仕方ないですね。
ジャニスが亡くなり、この映画も終わります。
ああ、ジャニスの40歳の姿も、50歳の姿も見たかった。
はいはい、分かってます。3行前に「“たられば”を言ったところで……」と書きました。はいはい。
それでも、言わずにはいられないのです。
だって、彼女と共に生きた人たちがそこにいて、彼らは素敵に年を取っているのですから。
どうしたって、すっきりと美しくなった40歳、50歳のジャニスを思わずにはいられません。
中年となった彼女は、やるせない若さという繭から抜け出して、身軽になっていたはずです。
そして、生きていれば80歳になっているジャニスは、ロックの女帝然と笑っていたのではないかと、夢見る初老は妄想を拡げるのでした。
映画情報
製作国/アメリカ
監 督/エイミー・バーグ
日本での公開は2016年です。
アルバム『パール』ですが、パールとは、ジャニスがそう呼ばれることを好んだあだ名だそうです。
ジャニスが生前、「私が死んだ暁にはみんなで一杯やって。パールの奢りよ」と言ったと、何かで見たのですが、彼女が自分をパールと呼んで悦に入っている姿を想像すると可愛すぎる。
ジャニスの「陽気なテキサス娘」という一面なのでしょうかね?
コメント