映画『イル・ポスティーノ』ネタバレ感想 ベアトリーチェの怒りはどこへ向かうのか

入り江 シネマ手帖・洋画
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美しい風景と素朴な人たちが描かれた映画、『イル・ポスティーノ』を見終わった直後に残った疑問はこれでした。

「ベアトリーチェの怒りはどこへ向けられたのだろう?」

いや、そもそも、ベアトリーチェが怒っていたのかどうかも分からないのですが、再会したパブロへ向けた彼女の視線に、私が勝手に怒りを感じたのです。

というわけで、映画『イル・ポスティーノ』の感想を語ってみたいと思います。

「映画のロケ地、美しすぎる~」と思われた方も、「あの結末は予想外よね~」と思われた方も、よろしかったらお付き合いください。

ただしネタバレ・あらすじを含みます

お嫌な方はここまででお願い致しますm(_._)m

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『イル・ポスティーノ』ネタバレ感想

記憶がおぼろになっている方&見ていない方のために簡単なあらすじを。

ナポリ沖の小島でマリオは父と暮らしていた。父は漁師だが、マリオは漁師の仕事を嫌って漁に出ることはなかった。別の仕事を探すよう父から言われていた折、チリから国外追放された詩人、パブロ・ネルーダが島にやってきた。時を同じくして郵便局では配達員を募集、仕事内容は世界中から届くパブロへの郵便物を届けるだけというものだった。マリオは配達員となり、パブロとの交流が始まった。

ベアトリーチェの怒りはどこへ向かうのか

ベアトリーチェとは誰か?

主人公のマリオが恋して、のちに結婚した女性です。

さっそくのネタバレで申し訳ないのですが、実は、主人公のマリオは、生まれてくる我が子の顔を見ることなく、この世を去ってしまいます。

いや~、予想外でした。美しい島の風景の中、ほのぼのとしたストーリーが進んでいった先で、なぜその結末!? と、脚本家には文句の一つも言いたくなります。

マリオが亡くなることになった原因は、共産党員となったマリオが党の集会に出て、そこで警官と衝突したためでした。

こういう突発的な理由で亡くなった場合、残された家族の衝撃はより大きくなると思われます。しかもベアトリーチェは妊娠中でした。

そして月日は流れ、生まれた子供が5歳になった頃、マリオが共産主義に走るキッカケとなった人物、パブロ・ネルーダが再び島を訪れます。

こう書くと、パブロは政治的な人物と印象を持たれるかもしれません。いや、それもまた一つの事実なのですが、彼は詩人でもあり、詩人として世界的に有名なのです。

マリオはパブロと接するうちに詩に目覚め、その目覚めがなければ、マリオとベアトリーチェが結婚することもありませんでした。

しかし、マリオは詩だけでなく、パブロの共産主義的思考にも感化され、結果、命を落としたのです。

もしパブロに出会っていなければ…と、ベアトリーチェが考えたとしても不思議ではありません。

だってねえ、パブロが数年ぶりに訪ねてきたのに、彼の顔を見たベアトリーチェの表情には、怒りのオーラが見えたのです。少なくとも私には。

大切な人が急に亡くなれば、誰だって、何度も何度も考えるのですよ。あのとき別の行動をしていたら、あの人は生きていたかもしれないって。

もちろん、そんなことを考えたって、過去は変えられないと分かっています。そんな正論は百も承知の助ですよ。でも、考えるのを止められないのです。

ただ、ベアトリーチェにしても、パブロへ怒りを向けることは理不尽だと分かっていたのでしょう。怒りをぶつけることなく、ただ淡々と、パブロが島を出ていった後のことを語って聞かせました。

そしてパブロとしても、マリオの訃報を聞かされて、彼自身、もし自分がマリオと交流を持たなければ…という考えがよぎったかもしれません。

でもね、マリオ本人だけは、パブロに出会ったことで、新しい世界を見ることができて、絶対に幸せだったと思うのです。

パブロに出会う前のマリオは、漁師になることも、島での生活も嫌で、かといってアメリカへ渡る勇気もなく、無為に日々を過ごしていました。

もちろん、そんな状態の男には恋人だってできません。しかしマリオは愛してくれる人がほしい。

マリオがパブロに興味を持ったのは、「詩人って女にモテるんだ~」というミーハー心からです。

「パブロと友達だと言ったら、女の子が寄ってくるかも。あ~俺も詩人になりた~い」という感じでした。

こう書くと、えらくチャラい……。

でも、マリオはチャラいのではなく、素直なだけなのです。良くも悪くも、すれていない子供みたいなところがあります。

そんなマリオだから、とりあえずパブロの本を読んでみる。すると、なんだか変な気持ちになる。頭でなく心が詩に反応していました。

これって、すごいことだと思います。マリオは詩人にはなれなかったかもしれないけど、詩を感じる力はちゃんとあったということです。

このとき、マリオの心の目が少し開いたわけで、その瞬間の感覚が、私もちょっとだけ分かる気がします。

私の場合は、詩ではなく小説でした。小学生でした。ある本を読んで、心に感じたことを言葉にできるのだと知ったとき、目の前が、さあっと開けた気がしました。

今でもその本の題名と、表紙の淡い色合いに胸が切なくなった感覚を覚えています。

で、まあ、少しばかり目の開いたマリオは、詩的なものだけでなく、今まで気にも留めていなかったことまで見えてくるようになります。

それまで島の不便な生活に疑問を持つこともなかったけれど、皆で声を上げれば、変えることができるのだと気づきました。

もちろん、それを実現するのは容易ではないですけどね。でも、知っているのと知らないのでは大違いです。

パブロに出会う前のマリオは俯き加減で、いつもオドオドしていました。それがパブロに出会って、政治にも目覚め、党の集会に出かけたときのマリオは、明るく生気のある顔つきになっていました。

集会でのマリオの笑顔には、「この人、ちょっとハンサム…?」と思ってしまいましたよ。(ハンサムって死語…?)

また、何もない、つまらないと感じ、出て行きたいとさえ思っていた自分の島を、最後には美しいと感じるようにもなっていました。

不思議ですよね。景色は何も変わっていないのに、マリオの目には違った景色が見え始めていたのです。

しかし、色々なものがよく見えるようになった反面、絶望することもありました。たとえば自分は詩人の器じゃないとかね。

ですが、それも含めて、彼は現実を見据えて、どう生きていくかを考えるようになったのでしょう。

党大会でマリオは詩を朗読することになっていました。声が震えるかもしれないが、それでいいんだと言ったマリオは、明らかに昔の彼ではありません。

そんなマリオが、パブロとの出会いを宝物のように感じることはあっても、後悔することはみじんもなかった、と思うのです。

党大会での生き生きとしたマリオの顔。あの日、あの朝、あの表情で、マリオはベアトリーチェに「行ってくるよ」と言ったかもしれません。

その時のマリオの笑顔を思い出すたび、ベアトリーチェの怒りは悲しみとともに、ひたすらにマリオへのみ、向いたのかもな~と思います。

たった1人で先に行ってしまった愛しい男への、それは大きな大きな愛情の裏返しなのだ…と思ったのでした。

隠喩はめぐる

詩集

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この映画、映画紹介で、カテゴリーが「コメディ」となっている場合があります。

結果を除けば、確かにそうだと思います。

コメディと思える一つが「隠喩」をめぐる出来事かなと。

マリオは島の人々を「無知」と言い、住んでいる島を「田舎」と言っていました。あるときはベアトリーチェに「こんな田舎からは一緒に出ていこう」なんて言っていましたね。

うん、うん。田舎者の私としては、マリオの気持ちが分かります。

水道もなく、水さえ自由にならない生活で、仕事といえばほぼ漁師しかない。同じ村に暮らす人々の中には、文字の読み書きすらできない人がいる。

アメリカで暮らす親戚の生活を知らされるたび、都会の生活はキラキラと輝いて見える。

そんなところに世界的な有名人がやってきたわけです。

しかも“詩人”ですよ。よく分からないけど、高尚な感じがしますよね!

よし、ここは一つ、パブロの本を取り寄せて、サインの一つもしてもらおうってなりますよ。パブロのサインを女の子に見せたら、その子と仲良くなれるかもしれない、なんて想像が膨らみます。

で、とりあえず本を読んでみると、意外と共感できる節がある。もちろん分からないこともある。なので質問してみます。

ここで質問できるのが、田舎者の怖いもの知らずです。怖いもの知らずで素朴です。

見ているこちらとしては、怖いもの知らずなところは恥ずかしく、しかし、あくまで素朴なので微笑ましくも感じます。

パブロも同じ感情を持ったのでしょう。なので、だいたいの質問には、ちょっと笑いながら答えてくれていました。

そんなわけで、マリオはパブロから「隠喩」というものを教わります。

隠喩というものは、案外、日常生活で無意識に使っていたりするものです。

しかしです。詩人のペンから吐き出される隠喩は一味違うのです。とくに、愛する女性へのパブロの詩は別格なのです。

「(きみの)髪の中に蔓と星がある」なんて言葉、どこから出てくるのでしょう。素敵すぎる。

問題は、この言葉含むパブロの詩を自分が書いたこととして、マリオがベアトリーチェに贈っていたことですね。

は~い、盗作で~す。

それ以前にも、「きみの笑顔は羽を広げた蝶だ」なんてことをベアトリーチェにささやいていたのですが、これも盗作なのかな? たぶん盗作なんだろうなあ。

もちろんベアトリーチェは盗作だとは知りませんから、初めて耳にする心地よい隠喩にハートをつかまれてしまったのです。

彼女はオバ(伯母?叔母?)さんと暮らしているのですが、オバさんから「あの男になにをされたの!?」と問い詰められて、「隠喩よ」ですって。

それでオバさんがパブロのところにやってきて、マリオを姪に近づけないようにと言い渡します。

パブロにしてみたら何のこっちゃなので、もちろん質問しますよね? マリオが姪御さんに何をしたのかと。

そこでもやはり、「隠喩」です。オバさんが実にもっともらしく、「いんゆです」と言ったのですよ。

これね、オバさんが「隠喩」と言ったとき、字幕が「いんゆ」とひらがなになっていました。

いや、わかってらっしゃる。この字幕を作られた方、ナイス。

さらにオバ様が続けておっしゃるには、「いんゆ」が「ベアトリーチェをかまどのように熱くした」ですって。やだ、この島の人たちって、みんな詩人?

しかしオバ様の妨害もむなしく、マリオとベアトリーチェは結ばれてしまうのですね。しかも立会人はパブロです。

よかったよかった。オバさんには申し訳ないですが、「いんゆ」はいい仕事をしましたよ。

そして、マリオの結婚と同時に、パブロは祖国での逮捕命令が取り消され、チリへ帰れることとなったのです。

パブロと彼の奥様は楽しく暮らしているようでも、やはり祖国を追われた辛さや寂しさがあったわけで、帰ることができるとなると、喜びにあふれていました。

ただ、マリオがね……。もちろんパブロのために喜びました。でもマリオにしたら、パブロと一緒に素晴らしいものはすべて島から消えてしまったと感じていたのです。

もちろん、後でそうじゃないと気がつきます。素晴らしいものはたくさん残っていましたし、隠喩という置き土産もありました。

イメージをかき立てる比喩表現に、マリオもベアトリーチェもうっとりしたじゃないですか。

そのとき感じたときめきは思い出となり、2人の間にいつまでも、甘酸っぱい果実のように残っているのです。

だからこそ、だからこそです。

ここらへんで話が終わっていれば、ちょっと切ない余韻を含んだコメディ・ドラマ映画として、余韻を楽しみながら見終えることができたのです。

最初から御存じの方もいるのでしょうが、パブロ・ネルーダは実在の人物で、チリの政治家であり詩人であったこと、また1950年代初頭にイタリアで亡命生活を送ったことも事実です。

ですが、マリオは架空の存在です。だからこそ~(泣)

映画の軸足が詩なのか政治なのか、どちらかハッキリさせてくれたらよかったな~と、私的には思います。

でも前半にあれだけ「いんゆ」を活躍させたなら、もう、そっちでいってほしかった。

なので、私の脳内だけでも、マリオの政治活動はうまくいかなかったけれど、マリオは無事ベアトリーチェのもとに生還。5年後にはパブロとの再会も果たし、美しい景色の中、マリオとベアトリーチェと彼らの子供は、つましくも幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし……で終わることにしようと思うのです。

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映画情報

製作年/1994年
製作国/イタリア・フランス
監 督/マイケル・ラドフォード
出 演/マッシモ・トロイージ/フィリップ・ノワレ

日本での公開は1996年です。

先にも書きましたが、この映画のストーリーは、実在する詩人のパブロ・ネルーダの史実を元に書かれました。

パブロがイタリアに亡命した事実をベースに小説が書かれ、小説をもとに映画の脚本が作られたそうです。

小説が原作となるのでしょうが、けっこう変更部分があるようです。興味を持たれた方は確認してみてください。そして、どっちが良かったか教えていただけますと幸いです。

話は全然違うのですが、私、この映画の中でパブロが、「入り江に向かい、ゆっくりと岸を歩きなさい」と言ったとき、「おお~、まるで詩のようだ~」と感動いたしました。

これはマリオが、「どうやったら詩を書ける?」と訊ねたときの返事なのですが、この返事がもう詩なのですよ。

なんと良い調べ……と思ったのですが、なんか既視感……。よくよく考えるとオノヨーコさんの『グレープフルーツ・ジュース』という詩集の文体でした。

「~しなさい」という文体で、こういうのを指示詩というらしいですよ。

パブロが「入り江に向かい、ゆっくり岸を歩きなさい」と言った後、マリオは本当に海岸を歩くのですが、その景色も実に詩的でした。

ラストが悲しい終わり方で残念なのですが、美しい映画であることは確かです。

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