ロバート・デ・ニーロ主演によるコメディ風味のヒューマンドラマです。
デ・ニーロ様の相手?役に、個性派俳優のフィリップ・シーモア・ホフマン。
「あら、面白そう」と思ったら、本当に面白かったです。
しかし映画を見ている間、私の思いは揺れまくったのでした。
というわけで、映画『フローレス』の感想を語ってみたいと思います。
「デ・ニーロ様のコメディ映画? 見てみたい!」という方も、「ホフマン氏がドラァグクイーン役!?」という方も、よろしかったらお付き合いください。
ただし、ネタバレ・あらすじを含みます。
お嫌な方はここまででお願いいたしますm(_._)m
『フローレス』ネタバレ感想
記憶がおぼろになっている方&見ていない方のために簡単なあらすじを。
シリアスとコメディの狭間で揺れる揺れる、揺れる私…
私事で恐縮ですが、私の場合、ドラァグクイーンが主人公の映画にハマる傾向がございます。
なので、ドラァグクイーンの映画を見かけると、ついつい、「あら面白そう」と、ぽちっとクリックしてしまうのです。今回もそうでした。
というわけで、『フローレス』に関する知識はほぼない状況で見始めたのですが、コメディと気づいたのは、ほとんど最後の方でした。
鈍い私が悪いのですが、それにしたって、シリアスの分量が多いのではないでしょうか?
おかげで、シリアスとコメディの間で、揺れる揺れる、揺れる私……。
「もう、ええっちゅうねん」と言われそうなので、このへんで止めておきますけれども!
しかし、デ・ニーロ様が渋カッコ良すぎて、ハードボイルド路線へ突入しても全然おかしくない始まりでしたよ。
ロバート・デ・ニーロ扮するウォルトは早期退職した警官なのですが、若い人とスポーツを楽しんだり、ダンスクラブで渋くタンゴを踊って、周囲からねっとりとした羨望の眼差しを向けられたりするのです。
ここらへんもね、コメディにしては、変にリアリスティックといいますか。
ダンスクラブで、いつもウォルトと踊る女性も美人過ぎず、ほんのり玄人の雰囲気をかもし出していて、なんともリアルな感じです。
かと思えば、ウォルトと同じ古いアパートに住むお婆ちゃま達は、確かにコメディ風味でかわいい。
でもね、最初にガツンとシリアスな印象を叩き込まれたために、途中で垣間見えるコメディ風味は混乱のもとでしかなかったのです。
ん? これってオレオレ詐欺の手口に似てません?
最初に本当の息子や孫だと信じ込んでしまったら、ときに違和感を覚えながらも、騙されているという事実に行き着かないというか。
で、この後、ウォルトは脳卒中を起こして右半身が麻痺してしまうのですが、これまたリアルすぎて見ていられないのですよ。
現実として、親しい人が半身麻痺となれば、見ている側も居たたまれない気持ちになりますよね。
その人が普段から頼りがいのある人だったら、居たたまれなさや同情する気持ちは、より強くなるのではないでしょうか。
で、過去にヒーローと言われた警官であり、今も若い人に引けを取らないほどにスポーツもダンスもこなせるウォルトであれば、同情心もより強くなるというものです。
これ、役柄だけでなく、演じている人が“あの”ロバート・デ・ニーロであることも、無意識に居たたまれなさや同情心を強める要因になっていると思います。
誰が悪いわけじゃなく、やはり映画の宿命といいますか、役者のイメージが良くも悪くも、役柄に投影されてしまうことがあるわけで、今回はどちらかといえば悪い方に作用した気がします。
話をストーリーに戻しますと、周囲からの同情にウォルトは落ち込み、優しくされればされるほど卑屈になってしまいます。
で、デ・ニーロ様…じゃなく、ウォルトは、友人たちが心配する中、誰にも会わず電話にも出ません。
人に会わなければ気楽かというと、そうではなく、何もできなくなってしまった自分に対して、泣いてしまうほど情けなくなるし、腹立たしくなるのです。
薬瓶のフタさえ満足に開けることができず泣くウォルトを見ていて、こんなときの涙って本当に苦いんだよな~なんて思い出しました。
ね? いや、「ね?」ってなんだって話ですが。
つまり、これでコメディってキツすぎません? シリアスと思い込んでしまったのも私の責任ではありません!
デ・ニーロ様の強面イメージと迫真の演技が悪い!
最後の、ウォルトとラスティでギャング達をやっつけてしまうところで、ようやくコメディと理解できました。
そうして、もう一度見返したら、ちゃんとコメディとして楽しめましたよ。
楽しめましたけど、もっと、題名のすぐ下にでも『コメディ!』と書いといてほしいな~と思った次第です。
ただの個人の感想ですが。
なにをもって完璧(フローレス)というの?
この映画の題名の「フローレス」とは、完璧という意味だそうです。
さてさて、何を指して「完璧」と言っているのだろうかと、映画を見終わって考えました。
思うに、映画の最後のシーンを指しているのだろうな~と、私なりに解釈したわけです。
最後の最後のシーンでは、ウォルトとドラァグクイーンのラスティが、仲むつまじく歌のレッスンをしています。
昔気質なウォルトはドラァグクイーンたちを毛嫌いしていて、同じアパートに住んでいるラスティにも超絶塩対応でした。
ラスティとしても、そんなウォルトをよくは思えませんよね。2人はいわゆる犬猿の仲でした。
ですが、体が麻痺して思うように話せなくなったウォルトは、リハビリとして歌のレッスンをすすめられ、紆余曲折あってラスティにレッスンを頼んだのです。
当然、一筋縄ではいかなくて、まずレッスンにたどりつくまでに一悶着、なんとかレッスンをすることになっても一悶着。そりゃ、今まで犬猿の仲だったことに加えて、それぞれに抱える問題があるわけですから、うまくいくことのほうが奇跡です。
だからこそ、お互いを理解もした、問題も乗り越えた2人のあり方は完璧ってことなのかなと。
でも、そうだとしたら、2人の世界を見せてくれるのもいいですが、私としましては、もう一皮むけたラスティが見たかった。
ウォルトの変化はずっと見ることができるのです。
ラスティとのレッスンで滑舌がよくなり、気持ちに余裕が出てくるところ。
脳卒中を起こす以前から抱えていた、親友からの裏切りという心の傷を、ラスティのおかげで乗り越えたところ。
まあ、ラスティは聖人君主ではないので、いろいろと目に余ることもあって、そんなラスティにウォルトは腹を立てたりもするのですが、そのへんも「雨降って地固まる」という感じに収まります。
このようにウォルトの気持ちが変わっていくのを見ることはできるのですが、ラスティのほうは、ちょっと分かりづらいです。
ラスティがウォルトに、自分はドラァグクイーンと呼ばれるのは好きじゃないと言うシーンがあります。
自分は本物のシンガーで、ドラァグクイーンではなくプロのアーティストだと言うのです。ラスティは自分に誇りとプライドがあるのですね。
それはいいことですが、実際のところ、ラスティは歌を歌ったり教えたりするだけで生計を成り立たせることはできていません。
結局、後々のシーンでは、自分は醜く孤独なドラァグクイーンだと認めるのですが、続けて、手術して本物の女になれば幸せになれるとも言うのです。
いやいや、それはない。
ラスティが幸せになるには、ありのままの自分を受け入れたところからじゃないと始められないのです。
ラストシーンで、楽しそうに歌のレッスンをしているラスティは、ありのままの自分を受け入れたように見えました。
ウォルトに「もう教えることはない」と言っていたラスティが、実に楽しそうにウォルトに歌を教えている姿は、音楽を通して誰かを助けることに価値を見出したかのようです。
もしかしたら、ラスティはこの先、ドラァグクイーンの音楽療法士として身を立てていくのではと思いました。
もしそうだとして、その辺りの決意を、もっとハッキリ見せてくれていたら、この映画は私にとって“フローレス”になったのにな~と思ったのでした。
映画情報
製作国/アメリカ
監 督/ジョエル・シュマッカー
出 演/ロバート・デ・ニーロ/フィリップ・シーモア・ホフマン
日本での公開は2000年です。
古い映画ですね。この頃、まだまだ若かったデ・ニーロ様は、今や80歳。
ホフマン氏は2014年に亡くなられたそうです。46歳でした。早すぎですよね……
・
・
・
・
↓デ・ニーロ様の代表作の一つと言える映画
↓デ・ニーロ様の出番は少ないながら、さすがの存在感を示す映画
↓ホフマン氏が“嫌な奴”を見事に演じている映画
コメント